「ただ かずひこ」

「ただ かずひこ」とはどんな人?

困難な時こそ、力を発揮する

 新型コロナウイルス感染症の影響と闘う皆様に、心からお見舞い申し上げます。
 市民の安心安全と大打撃を受けた地域経済の立て直しに全力で取り組みます。
 一致団結して道を切り開きましょう。

 

人生意気に感じて

 一彦は遠野高校を昭和52年に卒業、青山学院大学法学部へ進学、高校時代はサッカー部で全国高校サッカー選手権にも出場しました。

 大学卒業後、昭和56年に遠野市役所へ入所、昭和60年3月、26歳の時に市役所を退所しました。

 今でこそインターネットで世界中と情報を交換し、仕事によっては、どこでも仕事ができますが、当時はITもパソコンも無く、情報入手はテレビ、ラジオ、新聞、FAX等でした。

 遠野市が観光や企業誘致を進めるためには、関東方面へ通うしか当方はなかったのです。

 遠野市から通うと時間の無駄と好機喪失になると考えた一彦は、当時の市長に市役所の東京地区センター構想を出したが受け入れられず、昭和60年に市役所を退所したのでした。

 市民センター構想で画期的な地域づくりに取り組み、全国から注目された遠野市でしたから、可能性があると考えたのです。

 市役所を退所した一彦は「勝手に東京地区センター所長」となるために、東京の開発系企業に就職しました。結婚して子供が生後5ヶ月になった頃でした。

 それからの一彦は遠野のためにできることをしようと仕事の傍ら、関東での人集め、イベント協力、農産物の販路探しなど、微力ながら走り回っていました。

 12年前、宮守村との合併後の遠野市から「宮守ブロイハウス、コテージランドかしわぎ」の運営が困難なので、経営を受けて欲しいとオファーを受けました。

 初めは断りましたが、「出来る限りの協力をするから受けてくれ」という市長の言葉を信じ、「for the 遠野!」の精神で、一肌脱ぐ覚悟を決めました。

 私財を投じて経営を続け、何とか赤字を出さずに経営出来るようになりました。現在は社長を退き更新に託しています。

 特に「コテージランドかしわぎ」は、毎年多くのリピーターさんが訪れています。皆様のおかげです。

東日本大震災での支援活動から

 2011年3月11日、一彦の生活は、あの未曽有の大震災で一変したのです。

 大地震発生の瞬間、一彦は福島県の会津高杖スキー場でスキーの回転、大回転競技に出場していたのです。一彦はスキーヤーでもあり、若い頃はスキーの準指導員でした。

 地震直後は情報も無く、不安で山を下ります。朝方、車のテレビから報じられた想像を絶する大惨事に、胸が潰れる思いで渋滞の国道4号線を走り続けました。道路は寸断され、ガソリンスタンドには長蛇の列、睡魔と戦いながら、25時間をかけて遠野に帰り着いたのでした。

 遠野に着くと直ぐに、仲間と「遠野まごころネット」を結成し、被災地への物資支援、寄り添いや見守り支援、起業支援、教育支援(進学奨学金)など多岐にわたる活動を始めました。被災した保育園、公民館、集会所、産直、スポーツ施設なども寄付を集めて寄贈しました。

 遠野まごころネットは、現在も6次産業と障がい者の就労支援施設を結びつけた、葡萄づくりとワインの醸造販売や限界集落の活性化等の地域のための事業を実践しています。

 遠野まごころネットの理念は、目的と計画と実行が成果として結びつくことで社会の幸福に貢献することだからです。

 これまでに知り合った人や企業が持つその心意気は、一彦の財産となりました。

 震災後、遠野まごころネットには沢山のボランティアが訪れました。世界中から気持ち一つで被災地へ来てくれるのですから、被災者もボランティアも待たせることなく、スムーズに目的を達成できるようコーディネートしていると、そのやり方が気に入ったと大きな団体や要職に就いている方々、有名人も応援をしてくれました。ニュースなどでも沢山話題になりました。藤原紀香さんがまごころネットの事務所を訪問してくださった時は、あの美貌に目眩がしました。活躍している人のオーラで、被災地の皆さんを勇気づけてくれ感謝で一杯でした。一般ボランティアの方々もそれは同じことです。

 

 小泉進次郎氏や今は亡き岡本行夫氏らとも、親しく話す機会を得て、親交が深まりました。被災地への愛、日本への想いも強く感じることができました。

 東日本大震災後も大災害が日本国内、世界各地を襲い、助言や相互支援など、世界規模の友人として長く付き合っていける関係、互いの良いところを認め合って助け合える関係ができています。どんな偉い人も上から目線ではなく、同じ目線で助けあって行く世の中なのです。